投稿

9月, 2015の投稿を表示しています

「つづけること」のデザイン

イメージ
週末は中秋の名月。 季節はかならず巡ってきますね。 こうして否が応でも巡ってくる季節を前に、ふと思うのは、 「はじめる」ことより「つづける」「つづく」ことすごさ。 気持ちの赴くまま、あれこれやってきて、はたと気づけば、つづけけているような、つづけていないような…。 新しいことをはじめるのはパワーがいるものの、新しいものには、まだ見えない可能性があってワクワクしてしまう。だから普段はのんびりな私もこういう時には猛烈にパワーが出たりするんです。 ただしかし、こうして生まれたものを「つづける」ということに、いまひとつモチベーションが上がらないのは私だけでしょうか? 教育の世界では「継続は力なり」と言うのをよく耳にしますが、デザインの世界では、案外「つづける」ということよりも、「新規性」「即効性」に目がいきがちです。「何か今までに見たことのないようなもの」だったり、「即、問題解決してくれるもの」だったり。 「つづける」ことは、「成長」や「成熟」を待つことであって、その人やモノや事柄が「育つこと」に喜びを見出すこと。 「育てる」というキーワードをデザインにあてはめてみると、案外その視点が抜け落ちていることに気づきます。デザインは産みの苦しみの末、産むのだけれど、産んだ後はほったらかし。というケースがほとんどだったりします。 産み出したものを、どう継続して育てていくか。また自分が育てるだけでなく、社会の中で育ててもらうという大らかさが「つづける」秘訣かもしれません。 と、口で言うのは容易いのですが、、、 「つづけること」のデザイン。 これが、本当に難しい。 先日、記念日デザイナーの松村カヨさんと10月に甲南女子の大学院卒業生の会で二人で話をするにあたって、「記念日」と「ワークショップ」に抱くイメージを分解してみました。この分解の詳細はすっごく面白かったので、また追々書きたいと思いますが、ここで気づいたのは、 「記念日」は、多くのものが1年に一度、その日やその季節が「巡ってくる」「巡ってきてしまう」のに対して、「ワークショップ」は多くの場合が単発である。(これはあくまでも私たちの中のイメージなので、そうじゃない人もいるかもしれません) この分類が正しいかどうかは別として、アッとなったのは「巡ってくる…」という言葉。 自分からアクシ

問いを問う

イメージ
禅問答かっ。笑 来週、京都大学のサマーデザインスクールで塩瀬先生と安斎氏が行っているプログラム「問いで教科書を捨てる」に、「深い問いの実践者」?としてゲスト参加します。 「深い問いの実践者ってどーゆーこと???」なんとも気になるお題をいただきました。 全くもってよい問いをなげかけられたので、 un labo. のメンバーとこの問いについて少し話してみました。 http://www.design.kyoto-u.ac.jp/sds2015/theme28.html よくデザインとアートを比較して、デザインは問いを解決すること、アートは問いを出すことだと言われます。便宜上どちらよりなのかということで分けているのだと思うのですが、どーもいつもこの分類にひっかかるのです。 何にひっかかるのかというと、デザインはあたかもそこにある「問い」をどう解決するかというところからスタートするように聞こえるからです。まるで、ドアノブがつぶれている(問題)から修理する(解決)人のように捉えられなくもない。(ドアノブ修理してくれる人を心から尊敬しますが…) 実際のデザインのお仕事では、どこに「問い」があるのか分からないことの方が圧倒的に多いのに。デザインはまず「問い」の発掘作業からスタートすると言ってもいいと思います。何が問題なのか、その所在をデータからではなく、自分の嗅覚を研ぎすませて探ること、もうこれがデザインお仕事の根幹と言ってもいい。 問いは、常に「状況」の中にある。どういう状況で、だれがその質問をどういう意図でするのか、によってそれに対して考えるスイッチが入るかどうかが決まります。 デザインで最初にクライアントから依頼を受けた時、まず行うのがヒアリングですが、この時に「問い」の発掘作業がはじまります。決してクライアントの多くが「よい問い」を出してくれるかというと、そうではありません。むしろデザイナーの仕事として、クライントに対して「よい問い」を出すことで、問題の所在を探っていくというプロセスをふみます。 では、そのよい問いとは何だ???と考えてみました。 自分の経験から言うと、マニュアルや決まりや法則があって質問をしているのではなく、ごくごく直感に従って「気になる」部分を聞いていく。ただそれだけです。 「気になる」というところに必ず「問い」

見立て遊びのデザイン思考 

イメージ
文化は共想の中から生まれる 今までにないような新しい発想でイノベーションを起こすスーパークリエイティブな人材。多くの人はスティーブジョブズのようなカリスマ性のある人を思い浮かべてしまうのではないでしょうか。 けれども私は、そもそも一人の頭の中だけで行うクリエイションには限界があると思っています。そして一人で考えたものは例外をのぞいて、多くは市場で受け入れられないのではないかと考えています。 なぜなら、新しいものがスタンダートになっていく時には必ず、使い手と共に一つの文化の共創が行われるからです。今までにないような因子が社会に放り込まれた時に、多くのアイデアは理解されず、消滅していくことの方が圧倒的に多いはずです。 では、今まで見たことのないようなアイデアが、市場で理解され共感され、育っていくにはどうすればよいのでしょうか。 見立て遊びに興じる 日本には、石を動物や自然の様に置き換えた石庭や、詫び茶の設えに、竹筒を花器として用いる「見立て」を楽しむ文化があります。「見立て」は子どもがごっこ遊びに興じるように、ある世界観の約束事を共有して、主客が同じテンションでその場をつくるために演じるという一種の「遊び」です。 先日、9月5日(土)(株)ウィルソンラーニング ワールドワイドの本社会議室をおかりして、un labo.が主催するun schoolの「見立て遊びのデザイン思考」のワークを行いました。主客が一つの約束事を介して一つの世界観を形成していく「見立て遊び」の手法を用いたアイデア発想を行いました。 ワークでは、一見、コースターとは何の関連性も持たないような雑多なものがテーブルに並べられました。紐やおもちゃ、うちわや辞書など。そこに置かれたモノの上に頭で思考するよりも先に手や身体を動かしはじめます。意図せず、そこに顕れる風景や現象に最大限に感覚を研ぎすませます。 何かに見立てるとは、 何かに見えてくるということ。 何かが、そこに見えてくるということ。 何かに「見立る」というのは、多くの思考の余地を残したプロトタイプをつくることと同じ。そこから、いろんな人たちの意見が飛び交い、一つの方向性が見えてくるのです。 見立て遊びのデザイン思考のワークでは、 「思